top of page

「人体解剖実習」に参加すること

  • info2934365
  • 5月15日
  • 読了時間: 6分

来月、ハワイにて二度目となる「人体解剖実習」に参加する機会を得ました。その前に、2023年にタイ・バンコクで初めて参加した解剖実習を、今一度振り返っておきたいと思います。 ■はじめに

2023年の実習は一般社団法人臨床タイ医学研究会が主催する研修プログラムの一環として行われたもので、タイの伝統医療やセラピーに関心を持つセラピストや研究者など、約10名の参加者とともに学びを共有させて頂きました。


実習の場となったのは、バンコクにあるチュラロンコン大学医学部(Faculty of Medicine, Chulalongkorn University)です。同大学は1947年に設立されたタイで2番目に古い医学部であり、国内でも高い評価を受けている教育機関として知られています。私たちは、同大学の医学部生によって解剖されたご献体を用いて実際に人体構造を学ぶ貴重な体験をさせていただきました。



前提として、日本では医師や医療系国家資格保持者を除き、民間セラピストが正式に人体解剖に参加することは認められていません。しかし国外には、専門的な教育機関を通じて、倫理的配慮のもとでセラピストも学ぶことができる機会が用意されています。


「人体解剖実習」といえば、昨年末に実習に参加したある医師の行動がニュースで取り上げられたことも記憶に新しい方もいらっしゃるかもしれません。しかし改めて強調するまでもなく、大前提として人体解剖実習はご献体とそのご遺族の尊い意思によって成り立っており、深い感謝と敬意を持って臨む姿勢が欠かせません。

実際に私が参加したバンコクでの実習でも、まず初めに倫理に関する講義を受講し、その後施設に設けられた祭壇にてご祈祷を行った後に実習に入りました。 タイでは、解剖に用いられるご献体の多くが仏教的価値観に基づいた「自己献体(self-donation)」によるものです。仏教においては「布施(ダーナ)」が徳を積む行為とされており、死後に自身の肉体を人々の学びのために差し出すことは、尊い功徳であると考えられているとのことです。


祈りの儀礼は「人体解剖」とは医学的知識を学ぶだけでなく、神の元で「いのち」の深淵さに触れる行為であることを確認させて頂く厳かな時間でした。

実習室前の祭壇
実習室前の祭壇
施設の資料室にて:最新の映像資料
施設の資料室にて:最新の映像資料
貴重な人体の資料(プラスティネーション)を確認させて頂きました
貴重な人体の資料(プラスティネーション)を確認させて頂きました

■人体解剖実習について

解剖実習には主に「ホルマリン固定」と「フレッシュ(未固定)」の二種類のご献体が用いられます。

その違いを簡単に説明すると、前者は構造学習に適している一方で、腐敗処置に薬剤が使用されている為、組織の柔らかさや色、触感の変化が生じた状態となります。

一方冷凍処置をされた「フレッシュ」のご検体は生体に近い状態で、筋膜や神経、脂肪の層などの構造を立体的に観察できることが可能であると言われています。


■バンコクでの実習

私がバンコクで経験したのは、ホルマリン固定されたご献体を用いた実習で、実際に主要な臓器の大きさや重さ、主だった骨の構造、筋肉のつながりを確認することが出来ました。


なかでも印象的だったのは、臓器や骨の「質量」や「存在感」です。

脳は想像していたよりも重く、硬さも感じられました。その重さが手のひらに伝わってきたとき、ここに感情や記憶、情動といったものが宿っていたのだと静かな畏怖を覚えました。

肝臓も予想以上に大きく、その重みからは体内で果たしている複雑な働きを想像させられました。さらに脊柱や骨盤、大腿骨といった大きな「骨」からは「身体を支える構造」としての強さが感じられました。


その一方で、ご献体には見慣れた赤い血液は残っておらず、沈んだ色合いの、かつて血が通っていた痕跡が確認できる状態でした。その静けさを目にして生命とはなんと繊細で儚いものなのだろうと複雑な感情がふつふつと湧いてきました。


「物質」としての肉体の無機質さ

肉体が滅びるものであるという事実


筋肉や皮膚の層が剥がれ、露わになった「物質としての肉体」を観察するまなざしと、その身体にかつて確かに宿っていたであろう「いのち」を探すようなまなざしとを行き来するうちに、いつのまにか「「同じ人間という存在であることの連帯感」のような感覚に包まれていたことを思い出します。


実習の初めは、限られた時間の中で少しでも多くのものを見て、感じて、記憶に留めようという焦りのような気持ちがありました。けれど、時間が経つにつれて心が落ち着き、次第にあたたかで、なんというかさっぱりとした潔い心持ちでいられたことが面白かったというか…生きていることの「本質」のような「無」のようなものに近づいている感覚があったことが、今も印象に残っています。


■なぜ解剖実習に参加するのか

「身体に触れる」という行為をおこなうものとして「解剖学的な知識を深める」ことが主目的ではあります。

普段目にしている教科書や模型はあくまで抽象化された「設計図」のようなものですが、実際の身体はもっと複雑で、個性があり、何層にも重なり合っています。SOMIで施術をしているときも、「ああ、こういうことだったのか」と腑に落ちる瞬間があったり、逆に「どうしてこうなっているんだろう」と新しい問いが芽生えることがあります。


そのたびに骨や筋肉、神経や臓器が、どんなふうに折り重なっているのか…目で見て、触れて、感じて、確かめたい。施術中にふと感じる微妙な感覚の背景を、言葉にならない神秘的な感覚の背景を、もっと深く知りたいと思います。


それとともにもう一つの大テーマがあります。

それは「物質を正しく扱えてこそ、エネルギーを正しく扱える」ということ。


この数年わたしは尊敬している方から賜ったこの言葉に深く共感しつつ、SOMIの施術に取り組んでいます。(大学院に行ったのもそのための「修行」の一環でした。この話もまた…)


たとえば抽象画を得意とする作家が自由な表現の背景に緻密なデッサン力を持っているように、セラピーの世界でも「見えないもの」にアクセスするためには、まず「見えているもの」を正確に理解する力が必要だと考えています。


(先日訪れたヒルマ・アフ・クリント展でも、初期に彼女が膨大な量のデッサンを重ねていたことに深く納得しました!)


そしてそれは数年前まで私がその部分に深くコミットしていなかったことへの反省に基づいています。

(基礎を疎かにして、スピリチュアルなワークに重きを置いてふわっとした施術をしてしまったりなど。。)。

エネルギーワークのように「気」や「流れ」「感覚」などを扱う際にも、先ずセラピーの土台として「物質としての肉体」の理解が必要である…セピストとしてのキャリアを積むほどにそのことを痛感しています。


さら付け加えると、私が大学院で学んだ医療人類学の視点では「身体は単なる生物学的構造物ではなく、文化や経験、語りによって意味づけられた存在」とされています。

「この身体はどんな物語とともにあるのか」「この身体が社会から受け取っているものはなにか」

そうした問いに向き合う際にも、まずは「物質としての身体」を誠実に理解する必要があると感じています。


もっとよい施術ができるように、もっと身体に馴染めるように。 SOMIで、この手で触れさせていただくお一人お一人の身体、そのかけがえのない「人体という宇宙」に静かに、真摯に触れていきたい。


「身体の奥行き」に触れて、見て、感じる経験を、自分の中に積み重ねる機会に貪欲に! 人間という生命体の強さと弱さを学び、感じ続けていきたいです。


ということでSOMIは6月18日〜25日に研修休暇をいただきます。

研修を経ての良い変化を感じていただけますよますように。


Comments


bottom of page